手紙 9

残念なことですが、私たちは様々なことを知りつつも、おそらく一番に知りたい事柄について、中途半端な認識しか持っていないようです。私たちは何をすべきか、個々人が何らかの答えや確信を抱いて日々の用に対処していますが、当座の必要に対応するだけの即席処置に過ぎません。古人のように、「それははたして本当に善いことか」と問うまでもありません。今や我々の顔は不安で青ざめているか、その正反対かです。

私たちはかつてないほどに自由であり、その自由は人の背中に重くのしかかっています。その圧力のせいで身動きが取れないのだとしたら、この場合自由とは人を縛りつける鎖であり、生活者が心から望むのはそこからの解放でありましょう。我々の生活の基調は不安ですが、別の言い方をすれば、昼でも夜でもなく、薄明のうちに留まることを余儀なくされた集団として、足元も覚束ないまま、まどろみつつさまようわけです。

大航海時代は昔のことです。今や冒険とは、未知を切り開く蛮勇行為から遠く、ひたすら自らの足元を覗き込む集中の趣きがあります。熱量にかけてはどちらも同じくらい病的であるという点が、どちらにしても我々の営為であるということを強調しているようです。たぶん冒険の仕方がほんの少し変わっただけのことかもしれません。勇気の意味も、危険の種類も、少し異なるだけのことかもしれません。

私に思えるのは、今ここで私は何を思うべきか以上ではありません。私は一人の生活者として様々な関心の網の目のなかにいますから、思いの糸はあちらこちらへ揺れ動き、状況に応じて右へ左へ引っ張られるのですが、そうした運動のなかで、そこから外へ出ることなしに、どのように思惟を定めるか、どのような問いを抱き得るかを、望みたいのです。あるいはこう言いましょうか、望むことが許されるかと。

実際私は考えたことがないと思います。もし考えるということがあるのだとしたら、それは私というよりは、言葉が考えるのでしょう。言葉が語るのです。わたしは聴き手ですらないかもしれません。わたしがどこにいるか、それは言葉に聞いてみてください。言葉が知らないと言うのであれば、それはそういうことなのでしょう。とは言え、私はここにこうしているのであれば、言葉が語るというのは幾分かは私の妄言なのであって、言葉は私が語る限りにおいて語る他ないのだと、思っておくのが安全なのだと思います。

「言葉よ語れ」と言いたい気持ちはわかりますが、それはある程度道を踏み外した不適切行為の香りがします。いかにも語ることは語るのですが、それはやはり私の語りなのであって、どこまでも人間の語りに過ぎませんし、であればその語りの基調はどこかしら諦念と静けさを伴うもので、もしも喜びがどこかにあるのだとしたら、それはたぶん、きわめて深く重く込められた怨念のような、触れただけで取り返しのつかない爆発を起こすような、そんな喜悦のように思われます。それはきっと人の手に余ります。けれどそれが深い所にあるのであれば、それを無視することはできないのかもしれません。無視したところでそれがもしあるのであれば、その熱は知られないままに我々の営みを規定し、いつか勝手に爆発することもあるでしょう。

いずれにせよ、わたしはこう理解するのですが、言葉は過渡的なものに過ぎません。ならば言葉を使うというのは、歴史的な人間という存在者が語る行為に過ぎません。語る行為にどのような倫理がでは相応しいでしょうか。暴力的な語りでしょうか、従属的な語りでしょうか、中立的な語りでしょうか、それとも沈黙的な語りでしょうか。これはほとんど信念の問題かもしれません。何が当たるか人が推量する行為であれば、それは何か態度として不遜なところがある気がします。人はその倫理を推し量る立場にあるのでしょうか。しかし与えられた格率がない状況で、当てずっぽうに振る舞うことこそ非難されるべきではないのでしょうか。

おしゃべりの喧噪、そして沈黙、沈黙ののちに生じる発話。こうした一連の流れが起こるとして、では問われるべきはその沈黙の種類であり深さなのでしょうか。たしかに、真の驚きはいつもその後に生じます。ですが、私は個人的にはそうした驚嘆には飽き飽きしていますし、もはや興味を引かれることがありません。驚きはわたしに活力を与えてくれます。それはある意味食物より大事な命かもしれません。ですが、それがいったい何だというのでしょう。あらゆる驚きは、本当につまらないものです。美も同じです。私はそれらに用はありません。もうたくさんなのです。

人が生存するのにモーツァルトが欠かせない時は過ぎたのだと思います。そのように見なしましょう。恐ろしい、愛すべき時でした。そうした薫陶には教育的な意味はあると思います。夢と独断のまどろみから、真実の輝きの強さを示すことで、ある意味覚醒させる効果が、そうした情念にはあります。しかし逆に、その啓示にいつまでも留まるのは、これは俗世に生きる者にとってはやむを得ない事情もあると思いますが、どこか残念で、かなしいことと感じられてなりません。もっとも、美は人より大きく、そこにあらがうことができるのか、それは難しいかもしれませんが、反抗と言うのがこの時代の美徳なら、それはまずこの領域における勇気であるのかもしれません。

2025.08.30

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