こんにちは。私はまだ生きています。いや、生きているのでしょうか。私は自分がどこにいるのか、どのように理解しているのでしょう。というのも、何らかの理解なしに私は今、存立し得ないのではないかと思われるからです。そしてその理解なるものを、私が自覚しているかいないかは、これは問われるべき事柄です。その問いは、「自覚し得るのか、し得ないのか」に変化するかもしれません。この問いが我々の進路に入るのであれば、辿るべきでありましょう。
さて、私は以前「誠実」という言葉を使いましたが、こうした態度を徹底した先には何があるかというと、これは究極の人間的行為の源泉であって、かんたんな道ではなく、どのようにしても至難な道のりのようです。片寄ることができないからです。何らかの立場に落ち着いて、そこを基礎として万事を宰領することができないからです。言ってみれば、安心がないから、不安のままに浮動しつつ、しかも進まなければならないからです。
私は語らねばなりません。これだけが私にとって確かなことで、私はこの命令をどのように受けとめるべきか、どのように応えるべきか、一歩でも踏み外したら転落する崖路で、蒼白になりつつ、命綱もなく、仮定の希望も許されず、手がかりもないままで、しかも応答しようとする他ありません。私の言葉を聞くのは誰でしょう。草でしょうか、木でしょうか。虫でしょうか、獣でしょうか。空気は震え、そして歌声はやみ、静寂が降ります。観客のいない独り舞台で、私は演者として舞うのです。
目的ですか。私は存じません。あるともないとも分かりません。ここは歴史の狭間で、ここから見える景色を写生する画家というよりは、ここを歴史の狭間とし、筆を走らせることによって景色をつくる、そんな仕事というのが近いかもしれません。この仕事に価値があるのかないのか、そこに私の関心はありません。「Die Rede ist…」、私はその続きを記すのみです。
書くのは私であり、私は人間ですから、「書くのは人間」と言えたらと思いますが、しかし私が、いや、これが、人間であると、どうして決められましょう。書き手は人間なのでしょうか。それとも、論理の束なのでしょうか。言葉なのでしょうか。どのような顔なのでしょうか。それはしかし、彼が記す文章によって、明らかに示されることでしょう。
「人間とは誰か」、人間に聞いてみましょうか。けれど気をつけないといけません。そのような問いが適切なのかどうか、ひいては、その問いは今私たちに許されているかどうか。思いをいたすべきはそこでありましょう。なぜなら、私は存在することしかできないからです。そして存在する以上、私は何らかのものであります。ここから逃れることができないのです。つまり、私はなくなることができません。であれば、私はあるものでしかあり得ず、あるものとしてしか行い得ず、それは従って「あるものがあるものの中で行う」ということの外へ超出することができないので、この構造が私の桎梏であり、私の恵みであり、要するに私に与えられた戦場なのです。
ここでですから、私は上手くやることを求められているのだと思います。この中で、この中に留まりつつ、しかもこの中をある意味で超えること。これを遂行することが、私のすべきことなのでしょう。ですから工夫が必要です。蛇の知恵が要るのです。一途な思いだけでは、超えることはできません。仕組みを逆手にとって利用する方策が求められます。
これは天に向かって唾を吐く行為に終わるかもしれません。天に向かって放たれた唾は、届くことなく、私の顔に落ちるでしょう。これは隣人から見れば馬鹿げた行為で、狂気の沙汰で、物笑いの、あるいは排斥の種でしかないかもしれません。しかし当人は、この狂気か正気かわからない行動をやめることが、もはやできません。そうです、難しいでしょう。どのように上手く唾を吐くか。おそらく何かしらの転換が起こることが必須なのでしょうが、それは実際に唾を吐く者のみが、あるいはなし得ることではありましょう。きれいな顔の者には可能性はありませんが、よだれまみれの者には可能性を考える余地は、今の所、残されていると言えるのではないでしょうか。
たしかにこれは難しいことです。実際に何らかの転換が起こるとしたら、それは奇跡というべきでしょう。私にできるのは、であれば、汚らしい顔で何らかの質的転換が発生するための準備を整えることで、そうして実際に生じるか生じないかは、それこそ私には計り知り得ないことというべきでしょう。
2025.08.23

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