私たちは、さて、どのように世界を理解すべきなのでしょうか。あるいは、そもそも理解すべきではないのでしょうか。自分たちの安寧のための解釈を採用すべきなのでしょうか。それとも、何か異なる基準を当てるべきなのでしょうか。
私は「方法的歩み」と申しましたが、いったいに一つのまっすぐな道が前方に延びているわけではなくて、道を失い山中に迷う旅人が、藪に囲まれて行き場を見つけることができない状況に似ているのですから、まずもって、きちんと歩くことが難しいのです。だからこそ私は、というより私たちは、途方に暮れ、天を見上げて「ああ」とつぶやく他ないのですが、そう声の漏れたあとの静寂に包まれて、私たちの問いは始まります。
どこへ行けばよいのですか。自分がどこから来たかも思い出せず、行くべき地も知らず、かと言ってここに留まることもできません。私たちはどうすればよいのでしょう。腰を落ち着ける安楽椅子でも作るべきでしょうか。藪を切り開くための武器を磨くべきでしょうか。
地図のない土地に放り出されて、私たちは多くのことを知ることなく、不安と焦燥に急き立てられて、いたずらに争い、いたずらに求めます。しかし、誰も実際には知らないままなので、本当に我々が何者で、どこから来て、どこへ行くのか、答えのないままに振る舞うことを余儀なくされている以上、本当の安心は遠く。
仮定的知識によるかりそめの解釈のなかで――その正体が得体の知れない幻であり、当たっているか外れているかわからないような、したがって、それを保持するとは信仰すると同義であるような――そんな対処の仕方でもって、身を寄せ合い、傷つけ合い、慰め合うことになるのですが、せめて何か希望でもなければ、到底やって行かれはしないのではないかと思われるほど、地上の現実は混沌としていますし、救いようがありません。敬虔の第一歩が「放棄」である、というようなことにならざるをえません。
私たちに猶予はありません。今この瞬間に私たちは終わり得ます。あるいは、存続し得ます。私たちに選ぶことはできません。選ぶ力はありません。ただ我々にできるのは、ため息をつくことくらいでしょうか。ため息はため息であってそれ以上でも以下でもなく、それは言葉ですらない、旋律ですらない、空気の流れに過ぎません。それでも、それは我々の行為には違いありません。ため息がもれるというのは、これは人間の口からには違いないのです。
その吐息が「問い」に変わるまでには、いったいどんな作為が必要なのでしょう。少なくとも一つ言えるのは、私たちの問いが発せられるのは――そもそも発せられるとしたらですが――それは押し黙った口からであって、よく回る舌からではなさそうです。沈黙は強いられたものであって、自分で口を閉ざすものではありません。自己の無力を告げ知らされた者が、自ずから発する嘆声が、少しの希望の色に汚されて言葉のかたちを取ったとき、それが「問い」になるのです。いや、ならないかもしれません。「問い」に変容するまでの間に、まずそれは祈りとして現れ、歌われるのかもしれません。その調べを人間の歌と呼ぶなら、その響きは軒の松の枝に毎日訪れて鳴く、鶯のさえずりによく似ています。
私は人間であることをやめることができません。いや正確に言えば、私はすでに何らかのものとして「かくある」ことをやめることができません。その包みを内側から破ることができません。私はよく「敬虔」という語を用いますが、誤解多き使用法であることは認めましょう。厳密に言えば、神的なるものはまだ発見されていないのですから、それは慣習的な方便に過ぎません。
きちんと歩みたいのであれば、視界に何が映り、何が映っていないかを、わきまえなければなりません。慎重さを忘れれば、言葉に誘導され、言葉に利用され、しかもそのことに気がつかず、自分は頭を使って考えているのだと思うことになるでしょう。そんな在り様で敬虔について語るのだとしたら、それはむしろ不敬虔のきわみではないでしょうか。「分を超える」ということが難ぜられるべきなのだとしたら、自覚しないままに分際を踏み越えて進む行為は、驕慢の現れであって、罰を受けるべき行いでしょうから。
2025.08.02

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