さて、この道のりはきっと長いものでしょうから、路傍の木陰で少し憩うのも悪くはないはずです。ええ、私は愚痴を言いたいのです。
私はたしかに今こうして文章を綴っていますが、この指も、胸の鼓動も、目も口も、今この瞬間に止まってもおかしくはないのです。実際、その可能性があるのであって、実現しないのはある意味、運が良いからに過ぎません。このような状況において筆を執るのですから、この手紙もいつまで続くかわかりませんし、今日にも明日にも中断しうるものです。完成どころか、ひと段落着くまで進めるかすら定かではありません。
生活の中で、様々な関心の波にのまれながら、何か言葉を発したいと思うのであれば、それは一種の曲芸的なものになるのではないでしょうか。端的に言えば、腰を落ち着けて書くような行為は、起こり得ません。私たちの乗る船は常に大きく揺れ、立つことだけで力と意識のほとんどを消尽しなければなりません。そんな中で私に何が書けるのでしょう。私は本当に皆さまと共に笑わざるを得ません。
実に、嵐がひどくなれば、船は沈まなければなりません。私にはどうすることもできません。安全も安心も望めません。あまりにも船が揺れ動きますので、満足に字を書くこともできません。インクがこぼれてある箇所は真っ黒になるでしょう。判読できないほど字が汚くなる時もあるでしょう。そしてその逆で、比較的波が落ち着いた時の狭間に、丁寧な文字を記す場合もありましょう。
私には状況を制御する能力はありません。ここには自分の望み通りに動かすことのできない何かがあって、その何かは私を規定し、私を動かし、私を形作り、私自体を壊すのです。その間、私の望みは聞かれることがありません。
こうした状況はある程度、万人が共有するところであって、ある意味で根源的な人間の状況とも呼べるでしょうから、人間同士で話をするときには、何か共通の話題が――それは天気であったり食事であったりするのですが――必要とすれば、これこそ外れのない話題となるのではないでしょうか。そうであれば、出会ったご近所同士が挨拶するのと同様、このことについて話すのが我々のはじめの挨拶となりましょう。それは最も自然で当然のことではないでしょうか。もちろん他にも共通の話題はあるとは思いますが、これほどはっきりと明らかに万人に共有される状況も他には少ないでしょう。
ある方はこう思われるかもしれません。「数学を話題にすればよいのでは」「数は共通なのではないか」と。おそらく、数というものについてよく見ることが必要でしょうし、何らかの区別が適切になるかもしれませんが、少なくとも今このときにおいては、つまりこの段階においては、まだ数は発見されていないと私は申し上げておきましょう。
これは繰り返し述べられるべきことですが、進行に飛びがあってはなりません。一歩一歩進むことをしたいのです。であれば、私はこう言うべきでしょう。「私たちはまだ数に辿り着いていない」と。であれば、数について語るのは、つまり今この私が語るのは、場違いということです。数はもしかしたら宝物のようなものかもしれません。しかし、そのご褒美に至るまでには、私たちが越えなければならない峠は、多分一つではないでしょう。
私たちは歩むのです。方法的に歩みます。方法を失った徘徊自体が悪いとは思いませんが、私たちの目指すものではそれはありません。私たちはある意味では、刀をもって断つこともときには必要なのだと思います。それは確かに暴力に近いかもしれません。方法的暴力とでも呼んでおきましょう。
話を戻せば、私たちの途上においてのみ、数は発見されるべきであり、その発見された数は、あるいは価値あるものであったり、あるいは無いものであったりするでしょうが、どちらにしても、今はまだ語られざるものとして、しっかりと暗幕の後ろに隠しておかねばなりません。
2025.07.26

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