ところで思うのですが、誠実という徳は、対人的な意味でのそれは二の次であって、順序としては第一に事柄自体に対する態度としてのそれであるべきでしょう。こうした態度はほとんど方法とも言うべきものであり、言論の進行を規定する根本格率です。それは一足飛びをしないということであり、こちらの都合に合わせた展開を控えるということであり、いわば歩調をあちらの都合に合わせるということです。
到達したい結論があって、そこへと進むような仕方ではなくて、確かに目標地点はあるように思いますが、それを第一優先にしてはならず、それを意識しつつ、それに動きを縛られないで、むしろ事柄の要請するように進むべく努めること。そうした態度が誠実と呼ばれるべきでしょう。
これは突き詰めて言えば理不尽の裏表でもあります。言語道断の境であり、放下であり捨身であります。その先にはきっと敬虔もあるのかもしれません。ないのかもしれません。今は我々にはまだそれは明らかになっていないと思います。
私たちの歩みは一歩一歩であるべきであり、それは必ずしも遅行を意味しはしませんが、すでに動いている人の身においては、どちらかと言うなら停止や遅滞の方に親しむべきでしょう。あちらに合わせるという態度は、こちらの都合に拠らないということで、本来は不可思議なものですが、おそらく完全に従うというのはこれは一種の夢幻なのであって、実際にはどのような事態が起きるかをよく見なければなりません。
随従、捨己、こういったイメージは更新されるためのものに過ぎません。しかし次のような言い方も畢竟同じものかもしれません。現にかくあるものが現にかくあるものに還る。このような物言いをする場面をよく見てください。舞台が見えますでしょう。そこには登場人物がおりますでしょう。彼や彼女は何を語っていますか。よく聞いて、よく見ることが肝心なのだと思います。特にその表情はしっかりと確認しなければならないでしょう。どんな台詞も何らかの顔つきなしには語られ得ないのです。もし人において敬虔という徳があり得るのであれば、それは言葉だけによるのではなく、その貌も見なければならないでしょう。
2025.07.19(つづき)

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